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メイコミュTopインタビュー:オリンピックで3連覇を達成した柔道家 野村忠宏さん

カテゴリー:スペシャル
オリンピックで3連覇を達成した柔道家 野村忠宏さん

「ここまでやれるのは自分だけ!」未来の自分を信じて、やるべきことをやる

男子柔道60㎏以下級の選手として、アトランタ、シドニー、アテネのオリンピックで3連覇を達成した野村忠宏さん。好きな柔道にかけた熱い思い、試合に挑む恐怖とどう戦ったのかを聞きました。プレッシャーやケガを克服し、偉業を成し遂げた野村さんだからこそ語れるメッセージに耳を傾けてください。

PROFILE

1974年奈良県生まれ。祖父は柔道場「豊徳館」館長、父は天理高校柔道部元監督という柔道一家に育つ。アトランタ、シドニー、アテネオリンピックで柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック3連覇を達成する。その後、たび重なる怪我と闘いながらも、さらなる高みを目指して現役を続行。2015年8月29日、全日本実業柔道個人選手権大会を最後に、40歳で現役を引退。2015年9月に著書『戦う理由』を出版。ミキハウス所属。

公式ホームページ

苦難の道だった3連覇 プレッシャーや恐怖の克服

オリンピック3連覇でもっとも印象に残っているのはどの大会でしょうか?

初めて出場したアトランタでは、国を代表してオリンピックに出るプレッシャーがありましたが、周囲からの過度な期待を受けずに済みました。
シドニーは、金メダル確実といわれたプレッシャーがあった反面、心身ともに充実した大会で、試合内容もよかった。当苦難の道だった3連覇プレッシャーや恐怖の克服「ここまでやれるのは自分だけ!」未来の自分を信じて、やるべきことをやる初は、2連覇したら最強のまま引退しようと思っていたんです。シドニー大会のあと、「本当に柔道をやめたいのか?」自分の気持ちを確かめるために、柔道から離れました。2年間のブランクをおいて復帰して、もう一度勝てるようになるまでは過酷な日々でした。いろいろな苦しみを乗り越えた結果の、アテネ大会での3連覇だったのです。アテネはそうした思いが詰まった大会です。

3つのオリンピック金メダル 燦然(さんぜん)と輝く、左からアトランタ、シドニー、アテネオリンピックの金メダル。4 連覇を目指した北京オリンピックは、ケガのため出場権を獲得できなかった。
3つのオリンピック金メダル
燦然(さんぜん)と輝く、左からアトランタ、シドニー、アテネオリンピックの金メダル。
4 連覇を目指した北京オリンピックは、ケガのため出場権を獲得できなかった。

世間の期待と注目が集まるプレッシャーの克服は大変だったと思います。

やるべきことをやるだけです。人からやらされている練習では意味がありません。勝つために自ら練習して、遊ぶときも、練習するときも、自分の行動すべてが勝負につながっているという意識をもつように心がけていました。
ほかの人よりも練習時間は短かったので、よく「練習嫌い」といわれましたが、量よりも質を重視した練習の内容については今でも誇りをもっています。

野村さんは、ご自分の性格を「びびり」と表現されています。試合は怖くありませんでしたか?

試合前にはいつも怖いと感じていましたし、負けたらどうしようと思うと、試合前日はほとんど眠れませんでした。オリンピックに3回出ましたが慣れることもありませんでした。本気で取り組んで負ければ、それまで積み重ねてきた努力が報われないわけですから、恐怖を感じるのは当たり前です。
試合に勝った自分の姿を思い浮かべるイメージトレーニングに取り組んだこともありますが、イメージするのをやめると、恐怖が忍び寄ってきます。恐怖を感じずに柔道ができれば、どれだけ幸せかと思ったことか。けれども、自分が「びびり」だからこそ、なにをすべきかをしっかり意識できたのだと思います。恐怖心を克服するためには、しっかり準備して、必死に取り組んできたことを信じるしかない。試合に挑むのは自分自身。ほかの誰でもありません。孤独との戦いです。

一度は引退を考えながら、40歳まで現役を続けた理由を教えてください。

シドニーの頃までは、年齢を重ねても現役を続ける選手の姿を見て、「なぜ、そこまで柔道をやるんだろう? チャンピオンになったんやから、もういいやろ」と思っていました。だから、2連覇したあとに引退を考えたのですが、苦労してアテネで3連覇する前後から、少しずつ「カッコよくやめようと思うことがダサいんや」と思うようになっていきました。
柔道の軽量級は、選手寿命が短い傾向があります。世間が「野村はもう引退してもいいんじゃないか」という評価を始める。でも、柔道に対する思いはぶれなかったし、「なにくそ!」という反骨心もありました。4連覇を目指した北京オリンピック出場を決める選考段階では、右ひざの前ぜん十じゅう字じ靭じん帯たいを断裂しながら試合に出続けました。ケガが影響して北京大会には出場できず、オリンピック4連覇の夢は絶たれましたが、「とことんやってやろう」という思いは消えませんでした。これまで私を支えてくれたまわりの方へ、柔道に取り組むことで感謝の気持ちを示したかったという思いもあります。

野村忠宏さん

弱かった時代が長かった 努力が実を結ぶことを信じ続けた

柔道一家に生まれて、どんな家庭環境で育ったのでしょう?

祖父が「豊徳館」という町道場を開き、父は名門天理高校柔道部の監督を長年務め、叔父がミュンヘン五輪の金メダリストです。
祖父も父も柔道一家に生まれたプレッシャーを感じないように振る舞ってくれました。柔道を強制されたことはありませんでしたし、水泳も野球もやりました。塾にも行きました。父が私に直接柔道を教えてくれる機会はむしろ少なくて、柔道は自分で選んだ道です。
いろいろな選択肢を示してくれた両親にはとても感謝しています。父親となった今、両親が自分にしてくれたように、2人の子どもには、いろいろなことを経験して、自分が好きな熱中できることに出会ってほしいと思います。そして、父親として、ひとつのことを貫く姿勢を、ぜひ子どもたちに見せてやりたいと思っています。

夢をかなえるために大切なことについて、メッセージをお願いいたします。

私が結果を出し始めた頃、「野村の技は天才的だ」といわれました。けれども中学、高校時代は、背が低くて体重も軽く、必死に練習してもなかなか結果は出なかったのです。まわりからは「弱い」といわれ、今では親の気づかいだったことを理解していますが、親にも期待されていないと思っていました。
これだけは誰にも負けないといえるもの、誇りに思えるものがほしくて、懸命に好きな柔道を続けました。私に才能があったとしても、その才能が開花するまでの長い時間を諦めなかった信じる力や、思いを伴った努力は本物だと思います。信じられたからこそ、今があるのです。
私は熱中できる柔道を早い時期に見つけられて幸せでした。ぜひ自分の好きなことを見つけて、誰のためでもなく自分のために、努力を続けることの大切さを学んでください。スポーツでも勉強でも、努力がなければ結果はゼロなのです。

野村忠宏さん

胸に刻みたい! 野村忠宏さんの名言『成功のためのカギ』

◎誇りに思えるものを1つ持とう。
◎本気なら怖い。恐怖心は克服しなくていい。
◎自分で決めよう。『成功のためのカギ』

自分が好きになれるものを見つけたら、すぐに放り出したりせずに「誇りに思えるもの」を磨きましょう。世界最高峰の柔道家・野村さんでも、本気で取り組んだら「失敗が怖いのは当たり前」なのです。失敗を恐れてチャレンジしなければ、何も生まれません。また、人からやらされるのではなく、「自分で決めてやること」も見習いたいことの1つです。


こちらの記事は、明光義塾と保護者をつなぐ情報マガジン『CRECER(クレセール)』2014冬号でもお読みいただけます。

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